以前、自分の拠点ではない台所を使って気がついたこと、特に調理機器を中心にブログ記事にしたことがありますが、今回ホームではない台所を使って気がついた器のこと。
昨年の8月から、3つの台所を使いました。
ひとつは、ロサンゼルスの家。私の基本の台所で、どこに何があるかきちんとわかっている台所です。
2つ目は、昨年8月に一時帰国したときに隔離期間を過ごした別荘の台所。
祖父母が終の棲家にするために私が産まれた年に建てた家。結局祖父母は住まずに他界しましたが、祖母の、そして家族や親戚の影を感じる場所です。
3つめは東京の台所。
私はここでは居候ですので、今まで料理をすることはほとんどなかったから、どこになにがあるかよくわからない。やっと最近、馴染んできたかなぁ。
ロサンゼルスの台所をホームというならば、別荘と東京の台所は誰かの台所。アウェイとまではいいませんが、借り暮らしならぬ、借り台所です。
どこに何かあるかわからないし、そのもの自体があるかもわからない。前はあったものでも、家族が自分の家に持っていってなくなっている、なんてこともよくあります。
この2つの台所は馴染みがあるけれどここまでいることはなかったので、あくまで「人の台所」だから、誰かの手いくつもの手が入っていて、自分仕様ではないので不便さはあります。
けれど私はできるなら楽しいを選びたいから、不便もある台所でも「楽しい」を拾っています。
この日本の台所で特に楽しんでいるのが器です。
祖母や親戚や家族の目が通った器は、セレクトショップに並んでいる商品と同じ。誰かによって選ばれた器たちが歳を重ね厳選されて、すてきな器や使いやすい器が残っています。
もちろん時々は、ん〜・・・なんて思う器もあるんですが、そう思ったものに料理を盛ってみたら、おっ!?と驚くこともあったから、目が肥えていない私は選り好みせず、「とりあえず使ってみる」ことをこころがけています。
年代の違いがあるから、器の傾向も私の範疇外なものも多々あります。
和食器、漆器。
今では考えられない多種なタイプのお皿からカップまでが揃った洋食器。
可憐さのある箸置き。
両親が生まれる前の古い器。
自分では選べないだろうなと思う器もたくさんあります。
ザ・和物の器は、LAの台所にはないけれど、わさっと盛るとやっぱり和食は美味しそうに見えます。
大きな器。逆に小さな小さな小鉢。これ意外と使い勝手がいいんですよね。
小さめのお盆は、お茶を入れるときの持ち運びに便利。特に塗りのテーブルやテーブルクロスを強いた時に多様しています。
一見なんともない両面「青」のコースターは、洋食器はもちろん、「藍」に近いから和食器との相性もいい。
正直いえば、今までこれらの器に見向きもしませんでした。
小鉢は古臭いし、見た目は全然好みじゃない。
大きな器も小さな器も、あってもなくてもねぇ。
小さなお盆は、使い道がわからない。
青いコースターはあったから使ったけれど、自分だったら買わないもの。
どれも長時間関わったから知れた魅力。自分ルールを手放したから、その魅力が入ってきました。
誰かの、特に世代に違う人の目が入っているものは無知ゆえ嫌いになるものも多くある。実家の器って「古臭い」なんて思ったりしますが、そこに実は自分の幅を広げてくれるヒントがあったり、感性を広げてくれる出会いがあります。
もうひとつ「ない」こと、あるもので間に合わせることで、器の使い方自体も変わります。
私の実家は家族分の器がそろっている家でした。LAの台所もそう。だから家族分の枚数の器をそろえたくなります。けれど同じようなサイズを一枚ずつ揃えて、それを揃いの器のように扱ってもいいんですよね。
一つの器をどう使うか。
これも自分のお決まりがない場所だからできること。
人の台所は間違いなく厄介だったりわずらわしさもあるんだけれど、自分の土台がゼロの環境は自分の中に知らずあったルールが通用しないから、臨機応変さが求められます。
そこをどう捉えるか。
自分流を押し通すのも、一つの方法。
そして受け入れてみて、楽しんでみるのも一つ方法。
そんなことを学んでいる、最近です。
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