エリアによって変わる雰囲気と建物、歴史を宿すトビリシ
ジョージアの首都トビリシは小さい街だったので歩けてしまうことが多く、よく歩きました。目に入る景色がころころ変わり、ジョージア人の生活が垣間見えるから楽しくて、苦もなく。
少し歩けば街の雰囲気が変わるのが印象的でしたが、歩いているうちにエリアが変わっていることもあったので、余計にそう感じたのかもしれません。
街の雰囲気を作る大きな要素は、背景となる建物。トビリシにはヨーロッパ、ペルシア(イスラム)、ロシア建築、現代建築が混じり合っていました。
そしてそこに透けて見えるトビリシの歴史。トビリシの歴史をほんの少しだけでも知っていると、これが面白い!
トビリシの街並や建物が作る独特のミックス感。
トビリシの街並みは、かなり面白かったです。
ジョージアの首都トビリシ、街の歴史を簡単に
トビリシの街並み・建物の前に、これを知っておくとより楽しいトビリシの成り立ちをほんの少しだけ。
トビリシの街の始まりは紀元前に遡り、紀元前4000年ごろの居住跡が確認されています。4世紀のペルシア史料には集落があったと記述があり、この頃建てられたのが観光名所でもある旧市街地にあるナリカラ要塞。(上写真)。
6世紀、ジョージア東部にあった王国 イベリア王国のヴァンフタング・ゴルガサリ王が町を築き、その息子ダチがクタイシからトビリシに還都。12世紀にダヴィド4世がジョージアを統一し、ジョージア西部の都であったクタイシからトビリシに還都、ジョージア全土の首都となりました。
(ジョージアは全土統一されていて時期もありますが、東西それぞれ別々の支配下にあった時間も長いため、2度の還都としました。参照;外務省 ジョージア)
参照; 地球の歩き方 Plat ジョージア, ウィキペディア
繰り返し大国や王朝に支配を受けたトビリシ
ジョージアは大国に挟まれた国。北にロシア、南にトルコ、アルメニア、東南にアゼルバイジャンと接し、西はヨーロッパ、東は中央アジアに挟まれたコーカサス地域という土地柄、繰り返し各国各王朝の侵攻を受けてきました。
もちろん、首都トビリシも。
トビリシは6世紀にジョージア東部の首都となってから現在まで、ササン朝ペルシア、東ローマ帝国とハザールの連合軍、イスラム王朝のウマイヤ朝(ウィキペディア)・セルジューク朝(ウィキペディア)・ホラズム・シャー朝(ウィキペディア)、モンゴル、ティムール、イスラム王朝のタブリーズ・白羊朝(ウィキペディア)・サファヴィー朝(ウィキペディア)、イラン、ロシア帝国、旧ソ連の領土となっています。
参照; 地球の歩き方 Plat ジョージア, ウィキペディア
この数多の国の支配下にあった歴史が、トビリシの街を作っています。
トビリシの街並みはヨーロッパ、幾多の街を思わせる
トビリシは概して「ヨーロッパ風の街並み」と表現されます。石畳みの路地や、統一性のあるデザインの建物が並ぶその姿は確かにヨーロッパです。
トビリシの面白いところは同じ雰囲気の建物が街の一角を作るのではなく、割と狭い範囲に雰囲気の違う建物があるので、少し歩けばまた違ったヨーロッパの都市が現れるところ。
あるエリアはパリっぽく、こちらはイギリス的。あっちは中欧らしい。
一見ヨーロッパの街並みの中に、別の地域のヨーロッパが混在している印象がありました。
例えば、トビリシのメイン通りと言われるルスタヴェリ大通りは特にヨーロッパ的雰囲気が濃い一角ですが、上写真のエリアはパリ的印象が強めと思いましたが、どうでしょう。(ひとつ前の写真も同じエリア)
パリっぽいと言った写真の場所から徒歩5分ぐらいでこの眺め。こちらはイギリスっぽく感じますがどうでしょう。
塔があるGeorgian National Academy of Sciences(ジョージア国立科学アカデミー)の建物は、1950年代に完成した建物で、ナショナル・ロマンティシズム建築のストックホルムの市庁舎(参照;ウィキペディア)の影響を受けているそうです。
イギリスどこいったかな笑。
(参照;Georgian National Academy of Sciences; THE BUILDING OF THE GEORGIAN NATIONAL ACADEMY OF SCIENCES; )
こちらは別のエリア。トビリシではヨーロッパ風の建物だけれどカラフルだったり、柄や装飾がある建物をよく見かけました。
最近外装に手が入れられた様子のヨーロッパ的建物にその印象が強い気がしましたが、写真を見返したら古い建物もありました。
こういう建物は中央ヨーロッパ的。
昔訪れたハンガリーのブタペストやチェコのプラハの思い出が頭をよぎったのは、建物の色、柄、装飾的な部分とミックス感。 それとも赤い屋根かなぁ。
はたまた、排気ガス、かもしれない、、、笑。
トビリシは一見ヨーロッパ風の街並みです。ですがその場その場でヨーロッパの「どこ」かは変わる。
私はパリやロンドン、中欧を思い出しましたが、別の方は別の場所に重ねることもあるでしょう。
実際、家族はトビリシ滞在当初、黒海を挟んだ向かいの国 ブルガリアの話をよくしていました。そんな要素もあるようです。
ヨーロッパ諸国と陸続きの国ジョージアはヨーロッパの影響を強く受けている街並みですが、その中に違った要素を擁している。
そしてこれが、トビリシの「らしさ」のひとつです。
トビリシで心躍る、大好きなアールヌーボーのかけら
パリのメトロのエントランスアーチでお馴染みのアールヌーボー様式。曲線と自然モチーフの装飾が特徴的な建築ですが、トビリシの街中でも見かけました。
昔から好きなので私の目が高確率で拾ったのかもしれないけれど、度々。
歩いていて自分の好きなテイストが目に入るのは心躍ります。
トビリシの街中にあったベンチ(上写真)、街中で見かけたアイアンのテラス。いや、楽しかった。(建物の写真も撮った記憶はあるのに、ない!)
とはいえ、事前にトビリシ/ジョージアのアールヌーボーの建物を調べていたわけではなかった私。帰宅後、軽い気持ちで調べてみたら、あるある!
う〜ん、見逃した!と思っている帰宅後。これは再訪せねばなりません。
(邸宅は公開はされていませんが、あるトビリシのアールヌーボー邸宅につていの記事 → ELLE Decor; A NATIVE DAUGHTER OF TBILISI TURNS AN ART NOUVEAU GEM INTO A SHOWPIECE HOME アールヌーボー好きさん必見!)
今のトビリシの街並みは、1795年から始まる
トリビシの建物の記事を読んでいると、「1795年」という年をたびたび見かけます。
ロシア、トルコ、イランの覇権争いの中、この年、独立と領土保全を条件にロシア保護国にあったジョージア東部はイランに侵攻をされ、トビリシの街は大きく破壊されたました。(その後ジョージアは1801年にロシア帝国に併合され、以降ロシア・旧ソビエトに支配されました。)
この1795年のイラン侵攻で残った建物はほぼなかったため、現在トビリシに残っている建物は1795年以降建てられたものになります。
はい。ここまで書いてきたヨーロッパの街並みも、次の記事にあるペルシア風の景色も、トビリシの「歴史的建造物」と呼ばれるものは19世紀、ロシア帝国時代(1801〜1917)に建てられたり建てられたものです。
一見ヨーロッパ風の街並みだけれど、パリやロンドン、中欧など、それぞれ違う地域が混じっているようだと書きました。
それは時代/文化的背景もありますが、ロシア帝国時代に政府によりヨーロッパ風の外観で整えられたことも大きな理由の一つ。この時、当時人気があったいくつもの様式が使われたそうです。
参照; Wikipedia
次回はトビリシの街並みに見るペルシア風や旧ソ連の名残り
小さな街トビリシは、一見ヨーロッパ的街並みです。けれどその中にいろんなヨーロッパの景気がありました。
旅しながら昔の旅行の記憶がよみがえり、その時の話で盛り上がる。なんてこともあったりして。色々な意味で楽しいヨーロッパの街並み@トビリシでした。
でもね、トビリシの街はこれだけではないんです。
実はこの記事、最初はこの倍以上の長さがありました笑。いくらなんでも長いっ!ということで、本日はここまでですが、トビリシは色々な国や王朝に支配された歴史だけに、もっともっと街が面白い。
他にも色濃く残る歴史がありました。
ということで、つづく!
次回はトビリシの街並みにみる、トビリシ/ジョージアらしさを何よりも加えていると思うかわいい!!!イスラム風建築と旧ソ連の建物、そして個性と面白さをトビリシに添えている近未来的建物についてです。
どうぞよろしくお願いいたします。
記事内で参照している“地球の歩き方 Plat ジョージア”は、今回唯一購入したガイドブック。
なんせ未知の国。何も知らないところから始まったので、私たちは電子書籍版を購入して事前に読み込みました。ここまで活用したガイドブックは初めて!と言えるぐらい。
言いたいことはあるけれど、足りない部分もありますが、あってよかったガイドブック。これがなかったらどうなっていたことかと思います。
満足できるガイドブックです。
参照
Culture Trip; The Most Impressive Architectural Landmarks in Tbilisi
Grande Flanerie; Modern Style in Tbilisi
TBILISI ARCHITECTURE NETWOEK; ART NOUVEAU IN TBILISI